新たなるステージへ。


 修士論文口頭試問も終わりました。

 後は、お世話になった方々へ論文をお渡しし、新たなるステージへ。

 …というわけで、「苦悩もまた楽しきかな」も「第三章」として心機一転してみたいと思います。

 たびたびの引越しで、訪ねてくれている方には大変申し訳ないのですが、

 以下のアドレスのほうにお願いいたします。

 http://masatoman.blog51.fc2.com/

 しばらくばたばたしているかもしれませんが、マイペースで綴っていこうと思います。

 
 
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# by masatoman0414 | 2007-02-09 18:41 | プロフィール

宮沢賢治。


 ちくま文庫版『宮沢賢治集 1』を今日買いました。
 「春と修羅」が読みたくて。


 「春と修羅 第二集」
 
 三八四 告別 一九二五、一〇、二五、

 おまへのバスの三連音が
 どんなぐあひに鳴つてゐたかを
 おそらくおまへはわかつてゐまい
 その純朴さ希みに充ちたたのしさは
 ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
 もしもおまへがそれらの音の特性や
 立派な無数の順列を
 はつきり知つて自由にいつでも使へるならば
 おまへは辛くそしてかゞやく天の仕事もするだらう
 泰西著名の楽人たちが
 幼齢弦や鍵器をとつて
 すでに一家をなしたがやうに
 おまへはそのころ
 この国にある皮革の鼓器と
 竹でつくつた管とをとつた
 けれどもいまごろちやうどおまへの年ごろで
 おまへの素質と力を持つてゐるものは
 町と村との一万人のなかになら
 おそらく五人はあるだらう
 それらのひとのどの人もまたどのひとも
 五年のあひだにそれを大抵なくすのだ
 生活のためにけづられたり
 自分でそれをなくすのだ
 すべての才や力や材といふものは
 ひとにとゞまるものではない
 ひとさへひとにとゞまらぬ
 云はなかつたが、
 おれはもう四月は学校に居ないのだ
 恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
 そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
 きれいな音の正しい調子とその明るさを失つて
 ふたたび回復できないならば
 おれはおまへをもう見ない
 なぜならおれは
 すこしぐらゐの仕事ができて
 そいつに腰をかけてるやうな
 そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
 もしもおまへが
 よくきいてくれ
 ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
 おまへに無数の影と光の像があらはれる
 おまへはそれを音にするのだ
 みんなが町で暮したり
 一日あそんでゐるときに
 おまへはひとりであの石原の草を刈る
 そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
 多くの侮辱や窮乏の
 それらを噛んで歌ふのだ
 もしも楽器がなかつたら
 いゝかおまへはおれの弟子なのだ
 ちからのかぎり
 そらいつぱいの
 光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

 
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# by masatoman0414 | 2007-01-30 22:53 | 雑感

雑感。

教育の実質をもってでなく、「外形」をもって競うのが学校の本質にふさわしいものかどうか(以下略)
  (佐藤秀夫『教育の文化史 4』阿吽社、2005年)


 今日で常勤講師としての正規の授業は終わりました。終わってしまいました。
 今日は先日「崩壊」した女子クラスを率いて例のビデオを見たわけだけれど、次の時間が期末試験というアレな状況だったので、最初は「え~。ビーデーオ~。めんどくさ~。」の声が大勢を占める。なかなか教室から移動しようとしない。「テスト前なのによ~。」と言いながら携帯ゲームに興じている子たち。かわいい子たちだ。
 ところが、授業後の感想シートには、驚くほど多様な言葉が綴られていて、感動すら覚えました。
 「せんせいはせっきょくてきでイイと思います。今まで日本史でビデオとかみたことなかったから、実際の映像とかみておもしろかった。」「カラーで映像が残っていたなんてスゴイ」
 と、まあこれはこれで嬉しかったけれど、考えさせられたのは、「こういうグロいの好きだー(絵文字)」とか、「軍服とか戦艦とかチョー好きなんだけど(絵文字)」とかいう言葉。。。
 生徒に関しては、はじめは「ごくせん…」と思っていたのに、もう「情」が湧いてきます。耳とまぶたとクチビルにピアスあけて眉毛がない生徒でも、声をかけてくれます(なぜか「マロン」というあだ名が付きました)。

 ともあれ、せっかく公立高校に勤めているので、自分の描いていた「像」とのギャップを報告したいと思います。

まず、自分の「思い込み」として、「私立=講師が多い」「公立=専任が中心」というイメージがあったのだけど、さにあらず。自分のような立場の「常勤講師」が多いことに驚きます。つまり、授業時間も校務分掌も給与もほぼ専任と同じ扱いだけれど、単年度契約、という講師。
 バリバリ部活とか生徒指導とか行事とかやってる先生がいて、当然専任なんだろうなあと思っていたら、常勤講師だった、という先生が小規模学校でも4人ほどいます(多分生徒は分からないだろうな)。こんなに激務をこなしていながら、教員採用試験の勉強も両立するのは並大抵のことではないなとつくづく思います。すごい。
 自分の場合、入院された先生がたまたま担任を持っておらず、たまたま3年生のみ授業、という方だったのですが、当然担任を持つこともありえたわけです。私立では考えられないですね(学校にもよるかもですが)。

公立私立を問わず、やはり「生徒指導」が教師にとって重要な職務と考えられていること。しかしここでいう「生徒指導」とは、ようするに身なりをきちんとして、遅刻をしないとか、街に出て悪さをしないとか、そういう「外形」ですな。
 私立になると、身なりに過剰なまでにこだわることが多々あります。学校指定のセーターやソックスじゃなきゃダメとか、頭髪検査で何回も色を染めさせたりとか。。。
 程度の高低はあれ、日本の学校教育は「外形」を過剰に意識しすぎと思います。最も力を入れるべきは、「学び」ということだと思うんだけど。「授業」に関する議論は、大学という「擬似」の場でさんざんやるけれど、実際にはほとんどなされない。
 「学力」だって、キレイゴト言ったって、結局大学への進学率という「外形」。「部活」だって、結局大会での結果という「外形」。「紙キュラム」がまだまだ健在ですな。 

 …うまくまとまらないな。

 今日の朝日新聞に興味深い記事が載っていました。
 「教育再生会議」に対する疑問を呈した教育社会学者のコメント。「ゆとり教育を見直し、学力向上を目指して授業時間を増やす」という方針について、
①そもそもゆとり教育によって学力は本当に落ちているのか
②授業時間を増やせば学力は上がるのか
 という点についての検証が全くなされていないとのこと。教育社会学の研究では、これらについて相関関係が見出せないことが明らかになっているそうな。
 自分が一番腹立たしいのは、教育再生を鼻息荒く訴える首相の言う「高校の奉仕活動必修化」。必修(強制)したら奉仕活動じゃないじゃないかと小一時間問い詰めたいです。

 結局いつまで経っても「外形」で競っているとしか見えない。 
 
  
  自己犠牲の志を実行したことのないものほど他者に「奉仕」を求め、権力者にこびて自分の出世を求めるものほど自己正当化の拠り所に「愛国心」を強調する。今日の教育基本法改正論は、まさにそのような「知性」と「理念」との欠如した人々によって支えられている。「改正」されるべきは、まずあなたたち自身ではないのか。顧みて他を言うは君子のなすべきことではない。
  (佐藤秀夫、同上。初出は1999年。)
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# by masatoman0414 | 2007-01-29 21:57 | 雑感

目標。


 当面の目標を立ててみる。

 ①新しい環境
  ・「新米」であることを自覚し、謙虚に職場に適応するように努める。
 ②研究
  ・修論をベースに、学会(日本社会科教育学会)での発表を目指す。
  ・学会誌への投稿論文に挑戦する。
③教育者を目指して
  ・気負わずに、自分の出来ることを精一杯やること。
  ・生徒、保護者、同僚とのコミュニケーションを重視。
  ・授業リフレクションを行い、常に勉強、工夫を怠らないこと。
  ・「手作り教材」を模索すること。
  ・具体的な「場」から考える授業。
 
 ・・・いざ挙げてみたけれど、当面はこの3つだな。この3つを軸に、色々なことに取り組んで行きたい。

 幸いなことに、勤務校は大学から近いので、大学図書館や、教官などとも連絡をとりつつ研究生活を進めたい。
 また、よく話を聞いてくれる同期が同県に勤務することになるので、是非とも学びあいたい。

 
 あとは、いつかは家庭を築きたいのう。
 親元から離れてしまった不幸者の長男として、両親を安心させたい。
 不器用ものの自分に、僥倖はあるだろうか?
 
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# by masatoman0414 | 2007-01-28 21:28 | 生活

井の中の蛙。


県内某公立高校での常勤講師も4日間経ちました。
 (…まだ4日しか経ってないのか!!)

 
 はじめて教室に入った時は正直驚きました。
 脳裏に浮かんだ言葉は「…ごくせん」でした。
  (詳細はカッツ)
 
 授業では、「太平洋戦争」を扱えるということで、少しでも興味を持ってもらおうと、出来る限り工夫してみました。
 導入で『硫黄島からの手紙』と『男たちの大和』のパンフを回し、「これはいつの話?」と問いかけて授業をしました。
  太平洋戦争の過程を板書しながら熱弁を振るったら、何人かの生徒がいろいろ発言をしてくれました。
 授業後の感想シートに、「楽しかった」「わかりやすかった」と書いてくれた生徒がいて、うれしかった(涙)。(「特になし」や白紙もありましたが…)

 最初の授業で「要望」等を書いてもらったときに、一人の生徒が「資料を見たい」と書いてくれたこともあって、授業ではなるべく「本当の」映像なり資料を紹介しようと努めました。
「真珠湾攻撃」を報じた日米の新聞記事と、『国が燃える』のワンシーンを見せながら、漫画の中に出てくる記事がこれだよ、といったら「ほほー」となってくれました(一部ですが 汗)

 でも、昨日の一クラス(女子クラス)の授業は見事に「崩壊」しました。
 「先生、人生間違えたって思ったでしょ」なんて言われました。。。

 で、気を取り直して今日はNHKの番組「カラー映像で綴る昭和史 下」を見ました。
 観ていたら、最初「ごくせん」と思っていた生徒たちが、じーっと画面に魅入っていました。(全員ではないですが 汗)
 NHKの番組は本当にクオリティが高い。
 カラー映像で太平洋戦争の様子と戦後日本の様子をリアルに、分かりやすく編集してあります。
 感想シートに「言葉が出ない」と書いた生徒もいました。
 

 修学旅行で沖縄に行ったということで、本当はこれから「沖縄史を考える」とか、昭和64年生まれと平成元年生まれが混在している学年なので、「昭和から平成へ」とかいう単元をやってみたかったんだけど、残念ながら3年生はもう終わり。

 あらためて思ったのは、どんな生徒にも知的好奇心はあって、それをどう引き出し、「学びの場」に繋げていくのかが教師の力量なんじゃないかということ。

 「授業がなくなって暇だろうから、体を動かしてもらおうか」
 ということで、明日からは7:50出勤で、朝・昼・放課後と、学校内外のパトロールです。あとはお休みの先生の「補講」がメインです。


 自分は今、本当に貴重な学びの場を与えられていると思います。本当にいろいろなことを考えさせられます。

 ということで、明日からまた頑張ります。

 死んでも遅刻しません! (汗)
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# by masatoman0414 | 2007-01-25 20:52 | 研究

自己嫌悪。。。


 修論提出後の行動は大体以下の通り。

 16日(火) 無事提出 → お疲れ飲み会 
 17日(水) 爆睡(ほとんど記憶無し。食事もなし)
 18日(木) 健康診断10:00から
         → 終わった後、ランチで満腹。動けなくなり、しばらく車の中で待機
         → 「公教育の歴史」聴講
         → H田先生と友人と3人で食事
         → 爆睡

  ・・・問題はここから。

 19日(金) 2限のTAに寝坊
         → 午後からの合宿から参加。
 20日(土) 博物館や神社などを散策した後、帰宅。
 21日(日) 部屋の掃除をちまちまとこなしがら、現在に至る。

 2限のTA、指導教官のゼミなのに、まさかの二度寝。
 自己嫌悪から立ち直れない。

 ・・・ふー。あー情けない。


 明日からは県内の公立高校にて常勤講師。

 死んでも寝坊しないぞ!!!
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# by masatoman0414 | 2007-01-21 10:21 | 生活

謝辞。


  平成18年度 修士論文より抜粋

 本論文の作成に当たり、多くの方々や機関にお世話になった。この場を借りて御礼を申し上げたい。
 史資料の参照、閲覧に関しては、筑波大学附属図書館、国立国会図書館をはじめ、以下の図書館、資料館、博物館、小学校あるいは個人宅に足を運ばせていただいた。
 神奈川県立図書館かながわ資料室、小田原市立図書館、横浜国立大学附属図書館、南足柄市郷土資料館、報徳博物館、尊徳記念館、大日本報徳社、静岡大学附属図書館、静岡県立図書館、掛川市立図書館、掛川市立土方小学校、袋井市立笠原小学校、南足柄市立福沢小学校、小田原市立桜井小学校、鷲山恭彦氏宅「渓水文庫」
 これらの機関の中でも、各小学校の先生方には、ご多忙中にもかかわらず学校所蔵の貴重な史資料を拝見させていただいた。改めて御礼を申し上げたい。

 (中略)

 私が本論文のテーマを定めるまでには、多くの紆余曲折があった。
 意を決して退職し、大学院に進学したものの、基本的な学問の素養が欠落していた私は、なかなか自分の追究したいテーマに辿り着くことが出来なかった。1年間は学び直すことに終始したが、その間、I・J先生は「異端児」である私を見捨てることなく、様々な学びの場を提供して下さった。
 I・J先生からは、毎回のゼミを通して、具体的な「場」の位相から全体を捉えなおすという視点を学ばせていただいた。とはいえ、私の中途半端な「経験」が却って枷となり、先生の伝えんとする本質を理解することの出来ないまま、相変わらず目線の定まらない状態が続いた。
 そんな私の枷を解きほどいてくれたのは、他ならぬI・J先生の著書『郷土教育運動の研究』であった。制度規定論で下されていた定説を、実態に即して解き明かすことで覆すラジカルで緻密な先生の研究は、ゼミでのコメントの数々と合わせ、社会科教育研究に奇妙な「棲み分け」を感じ、疑問を抱いていた私にとって、まさに「目からウロコ」の連続であった。

 また、日本教育史がご専門のH田先生からは、近代公教育論のゼミを通して、「教育」の世界を歴史的に考察することの重要さと、醍醐味を教えていただいた。同ゼミでの先生のコメントは、教育史を通して日本の近代を見直すというダイナミズムが常に含まれており、私にとって最も刺激的なゼミの一つであった。H田先生からは、本研究を進めるに当っても、重要な文献を紹介していただくなど、大変お世話になった。

(中略)

 本論文を書き終えて改めて感じることは、教育の「これから」を考えるとき、「これまで」に目配りをすることなしに、有効な学びの場を創り上げることは出来ないのではないか、ということである。わが国には、「国策」とそれを鼓吹する学者に振り回されながらも、それをしたたかに受け止めながら、地域に根付いた教育の蓄積をふまえ、豊かな人間形成を目指して力強く展開した名も無い教員達の教育営為がまだ多く残されているはずである。そのような「これまで」から学ぶ姿勢を今後も持ち続けたいと思う。

 I・J先生は、あまりにも未熟な私の研究に対し、決して全否定されることなく、励ましも含めた味わい深い言葉を語ってくださった。
 「論文は‘足’で書きなさい」「‘鳥の目’と‘虫の目’を駆使して書きなさい」「切ったら血の出るような論文を書きなさい」「‘己の言葉’で語りなさい」等々、先生から頂いた言葉の数々から、どれだけ励まされ、また示唆を得たかは、逐一挙げられないが、それら全ては私が大学院で得た貴重な財産である。

 論文の執筆に際しては、基本的な歴史論文としての「作法」から、全体の構成に至るまで、時々に書き上げた未完成な文章にも丁寧に目を通してくださり、的確なアドバイスを頂いた。
(中略)
 研究以外でも、公私にわたる様々なご指導を頂いたI・J藤先生は、学ぶことを通して生き方を示してくださった、私にとって誰よりも「教育者」であった。先生のご指導を本研究の中に活かしきれていなかった側面があるとすれば、それはいうまでも無く私の力不足によるものである。

 自分の非力さを思い知らされるばかりの毎日を支えてくれたのは、年齢が離れているにも拘らず、叱咤激励とともに机を並べてくれた学友の存在であった。私のゼミでの拙い発表にも、見当違いのコメントにも、彼らは真摯に向き合ってくれた。「対話」の醍醐味を教えてくれた彼らとの出会いは、私が大学院で得た最大の財産である。学友であり「戦友」でもある彼等とは、是非今後とも学び合いたいと強く願っている。

 最後に、職を擲って大学院へ進学した自分を、温かい目で支えてくれた両親と、私がかくありたいと願う家庭を築いている姉に対して、改めて感謝の意を表したい。
 私は、高校教員である父の背中を見て教職を志した。私が大学院で学びたいと打ち明けた際に、父が「頭でっかちもいいけれど、大事なのは目の前の生徒に向き合って目線を下げ、共に学ぶことなのではないか」と言ってくれたのは、今思えば至言であったと思うが、それは大学院での学びを通して私が感得したことでもあった。
 今後、大学院で学んだ具体的な「場」を通しての研究を、どのような形であれ継続していきたいと思う。本論文を書き終え、私の研究生活は今始まったのだという決意を確認して、筆を擱くこととする。

平成19年1月16日
snufkinn

自分の「謝辞」をあらためて読んでみての感想は、
一言「長い!!」です。
コンパクトに言いたいことだけを伝えることが出来るように、文章力を鍛えないと。(汗)
あと、せっかくいただいた「おれじゅう」さんからのコメントが、自分の操作ミスで「非公開」になってしまいました。お詫びいたしますm(_ _)m
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# by masatoman0414 | 2007-01-17 03:27 | 研究

見えざる手  後半。


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父が入院する時、

 「暇つぶしに何か読むもの頂戴。」

 といっていたので、

 浅田次郎『日輪の遺産』(徳間文庫、2000年)を病室に置いてきた。

  「終戦直前、帝国陸軍がマッカーサーから奪った時価二百兆円に上る財宝が極秘裏に隠匿された。それは、日本が敗戦から立ちあがるための資金となるはずだった。そして五十年後、一人の老人が遺した手紙がその真相を明らかにしようとしていた―。終戦時の勤労動員の女生徒たち、密命を帯びた軍人など、財宝に関わり、それを守るために生き、死んでいった人々の姿を描いた労作。心地よい感動があなたを包む!」(裏表紙より)

 といったお話。

 父の父、すなわち僕の祖父は、帝国陸軍の士官だった。

 本に登場する「真柴少佐」とほぼ同期。

 戦後、誘われても公職には一切就かず、慣れない「武士の商法」に苦労しながら息子(父)を育て、クリスチャンの洗礼を受けて、戦争については語ろうとしなかった祖父へのオマージュという意味を込めて送った。祖父は僕が6歳の時、冥界へ旅立った。

 
 父が手術をするまさにその日は、父が10年間乗り続けた愛車から、新しい車に乗り換えるまさにその日だった。

 その車は、スバルレガシィ。

 父は新車納入を心待ちにしていながら、手術の日と重なってしまったため、手続きは息子である僕が一手に引き受けた。

 18万キロ乗った元の車を引き継いで僕がつくばに帰ってくると、父からメールが。

 「おじいちゃんのことを思いながら読んだ。『あとがき』まで読んで、お前が『日輪の遺産』をくれた意味がわかった。これから胸を張ってレガシィに乗るよ。」と。

 「脱稿の後に知ったことであるが、英訳表題として添えた「遺産(REGACY)」は、作中のマッカーサーが予見したとおり、今や高性能のステーションワゴンの名に冠されて世界を駆け巡っている。そしてその車を世に送り出した会社は、かつてB29の爆撃によって壊滅したはずの、旧中島飛行機の後身である。
 われわれの世代が、われわれの内なる「日輪の遺産」の存在に気付いたとき、少女達は暗渠から再生するにちがいない。」(「あとがき」より)

 遺産=レガシィ=スバル=中島飛行機。

 僕は全く意識せずに渡したのだけれど、父に言われてあらためて「あとがき」を見て、驚いた。

 「僕も今『あとがき』を読んで驚きました。『見えざる手』をして父さんの手元に届けさせたのではなかろうか。」と返信した。

 元の車に乗ってつくばに帰った次の日、受験していた私立中等教育学校がら正式採用の電話が入った。

 あらためて「見えざる手」を感じた。

 
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# by masatoman0414 | 2006-12-29 08:42 | 生活

見えざる手。


 父は元気に(?)退院した。

 12月23日。奇しくも父の誕生日だった。

 「誕生日は家で過ごしたい!」といったいた父が、1日予定日を早めて退院。

 その日の午前中、僕の家に某私立学校から電話をいただいた。

 「正式に採用が決まりました。」

 関東地方の某私立中等教育学校。

 「ここに決まると良いな」と思っていた学校だったから、嬉しかった。

 まずは父母に電話で報告。

 「良かったね」と。

 今まで自分のことしかしてこなかたわけだけれど、多くの人に「ありがとう」を言いたくなった。

 顔には出さずとも心配してくれていた研究室の友人。

 誰よりも「教育者」である指導教官のI藤先生。

 修論は今80枚ほどに達しているけれど、これからが山場。

 

 ・・・ところで、「見えざる手」の存在を感じた出来事が、同じ日にあった。

 詳細は後ほど。
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# by masatoman0414 | 2006-12-27 14:42 | 生活

帰着。


 昨日の深夜に、ここ茨城へ帰ってきた。

 父の手術は、成功裡に終わった。

 母と二人で、モニタールームで手術の様子を見た。

 途中、執刀医からの説明が入る。

 「わかりますぅー?ここ。これをこうきってこうふさいじゃいますからねぇー。」

 付き添いの看護士さんも、「質問があったら遠慮なくどうぞ。手術室につながってますから。」と。

 せっかくなので、何点か質問してみた。

 「それ(脱腸を防ぐために埋めこめられたネット)の素材って、何なのでしょう?もう一生取り替えなくても大丈夫なのですか?」
 とか、
 あんまり意味ない質問 (汗)

 でも、先生は丁寧に説明してくれた。

 

 ・・・癌の転移は、無かった。

 本当にそれだけが心配だったので、安心した。

 
 自分の今までの親不孝をあらためて反省した日々。

 
 まずは、これから修士論文に全力を注ぎます。
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# by masatoman0414 | 2006-12-22 08:13 | 生活